沖縄空手無想会(東広島)

新垣清最高師範によって再興された沖縄武道空手を広島で追及していく様子です。

武術に於ける明治以前と以後

「身体教育の思想」という本を読みました。

そこで興味のある記述があったので、私なりの解釈も入れつつ紹介。

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明治以前は現在でいう武道も美術も音楽も藝術というカテゴリーであったが、近代化によって、美術と武芸が分けられ、藝術の分野から武道がはじかれた。

藝術と武道は全く相反するもののように捉えられがちだが、実はそれは西洋化された近代日本の中だけでの考えに過ぎなかった。

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そしてそれを決定的にしたのが、嘉納治五郎であり、伝統を身に纏わせながら、日本的な思想から(意識的か無意識的か)乖離させてしまっていた。

(文章は私が感想的にまとめたものなので、著者の文章ではありません)

江戸時代以前と以降とで、近代化の波の中で空手の身体操作が機械力学的なものとして改変されてしまったというのが、無想会の主張ではあるが、思考的、思想的なものでも同じような状況にあったと考えられます。

もう少し武術に対して先入観を取り払う必要がありそうです。

 

ブライアン先生セミナーin広島

無想会本部指導員のブライアン先生(四段)の広島でのセミナーが決定しました。

詳細は以下。

日時:令和元年9月14日(土)

        午後3時〜午後6時30分

        希望者には延長で午後7時まで指導を受けられます。

場所:広島県東広島市西条町寺家2918

         新宮神社 神楽殿

講習費:5000円(会員、非会員一律)

参加希望の方は

i.taka_s50@k8.dion.ne.jp(礒部)

まで連絡して下さい。

無想会本部指導員の技が間近で見れるというのは貴重な体験です。普段は東京でしか行われていないブライアン先生セミナーです。東京まで遠くて行けないという方は、是非この機会に参加して下さい。

令和元年7/6(土)ブライアン先生セミナーin大阪

いつかは行こうと思っていたブライアン先生セミナー。いつもは関東ですが、今回は初の大阪でのセミナーです。

実はもともと7月のブライアン先生セミナーは、東京まで行って参加しようとは思っていたところ、ちょうど大阪で行うという情報が入り、すぐさま参加を決定しました。

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参加者は大阪近辺の方だけでなく、関東方面からも来られていました。

それだけ、このセミナーは期待値が高いのです。
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まずは基礎的なことからやっていきます。

基礎とはいっても、やはりこれが一番大事で最も難しい!出来てるようで出来てない!

しかし、ブライアン先生の見本と的確な指導とで、皆、納得の上、修正されていきます。
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新垣師範のセミナーとはまた違った雰囲気で、今までの稽古の中で湧き上がってきた疑問や見て欲しいものを次々とブライアン先生にぶつけていきます。
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しかし、このブログで全ての様子を記すのは非常に難しいのです。

何せ基礎という単純で地味なものながらその深さは果てしなく深い。

そして、全体稽古でありながら、個人指導の様相も持ち、しかも個人指導でありながら全体にも通ずる非常に充実した内容なので、とても私の文章表現能力では書き表すことが不可能なのです。

ただ一言言えるのは無想会会員ならびに沖縄武道空手を目指す者ならば、参加しないという選択肢は無いはずです。

皆、知識に渇望し、休憩時間も必要最低限のみで(昼食をとりましょう、と大阪代表が声を上げたのも、昼をかなり過ぎてからです)最後まで熱気が冷めることはありませんでした。

そして、残り1時間で、一人3分の制限で本当に個人指導並びに個人的質問。

最後は、予定時刻を大幅に過ぎながら、ゴジュウシホ、パッサイの修正稽古、更にブライアン先生による形の模範演武までやっていただきました。

ブライアン先生には我々の要求に全て答えていただき、かなりお疲れになったのではないかと思われます。

ブライアン先生、本当にありがとうございました。


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最後はみんなで記念撮影。

全員ブログでの顔出しオッケーということで掲載。

練習終了後はみなで軽く食事をしながらミーティング?懇親会?でしたが、私はその日が娘の3歳の誕生日ということで、それには参加せずに新幹線で帰宅。f:id:i_taka_s50_4_7syunpou108:20190707222800j:image

H師範、H氏に「空手にのめり込み過ぎて家庭崩壊の例はたくさん見てきましたよ」と脅されましたが、なんとか間に合い、家庭崩壊は免れました。

メデタシメデタシ。

 

次回はブライアン先生何と、広島にも来ていただけるとという話も!

まだ話の段階なので決定ではありませんが、もし、実現するとなると、9月のどこかになるのではないかとのこと。

まだ、具体的なことは何も決まっていませんが、決まりましたらこのブログでもお知らせします。流れたら何も無かったかの様にしときます。

知らんけど。

正中線について

6/9に沖縄同好会のT氏がわざわざ東広島まで来て下さり、合同練習を行いました。

Tさんは無想会の黒帯だけあって、非常に的確なアドバイスをしてくれ、大変貴重な時間となりました。

その中で、パッド打ちの時、どうも私の突きが突き側と逆の身体が動いてしまっているようで、そこを指摘されたのでした。これは気がはやって「打とう打とう」という気持ちが身体に表れ、動いてしまっていたようです。自分でも気付いていなかったことでした。

 

さて、話は飛んで、現在、私が主催している無想会とは別の個人道場では、中高生の部で土台を作る為、基本的な動きを集中的に指導しています。その中で、正中線について説明しようとするのですが、言語化させるとなるとなかなか難しい。

そこで考えたのが「柏手(拍手)」を具体例に使っての説明です。

正中線とは右でも左でもない境目となる線であります(沖縄武道空手の極意2参照)。

両手で柏手を打ちこの時現れる境目が正中線と言えますし、正中線を使ってエネルギーを発揮する結果が音となって現れると言えるでしょう。

では、右が無く、左のみの時正中線は存在するのか?またはその逆の左が無く右のみでは正中線はどうなるのか?

これは柏手を打ってみればすぐ分かります(いや、考えただけで分かるかもしれませんが、話の都合上)。

当たり前のことながら右左の境目もなければ音も出ません。

ということはどういうことか?

柏手で音を出すには右手と左手の動きのベクトルを真逆にして互いにぶつけ合わせなければなりません。または片方の手を完全に固定して反対の手をそれにぶつけるかのどちらかしかないはずです。

では、右手と左手の動きのベクトルを同方向にして柏手を打とうとするとどうなるでしょうか?

「お前はアホか?」と言われそうですが結果は音も鳴らなければ当りもしません。

またはスピードが互いに違えば、もしくは当たるかもしれませんが、音は非常に小さいものしか出ません。

賢明な読者はもうお気づきであろう、「ああっ、これは身体を回してしまう突きの状態と一緒ではないか!」(沖縄武道空手の極意参照)

つまり正中線が消失してしまっているのです。

 

ここでTさんとの合同練習で指摘された突き手と逆方向の身体が動いてしまうということを思い出しました。

私は右手でめいっぱい強く柏手を打とうとするあまり、左手まで動かしてしまって、結果、音が出ないようにしてしまっていたのか!と気付かされました。

つまり右の突きを出す時は、左の身体を完全に止めるか、または右の身体と逆方向に(身体内で)動かした方が大きな音=エネルギーが放出される。そうしないと身体からは正中線が消失されてしまうのだと。

なにせ正中線というのは本来存在しないものですから。

右でもない、左でもない線ですから、右と左が同時に存在しなければ正中線はその存在を失ってしまうのです。

このように自分の身体を柏手に当てはめて考えると、突きの稽古の意識が作りやすくなってきました。

正中線の概念と方法論が自分なりではありますが、具体化できたのではないかなと思っております。

私の未熟な技を厳しく指摘して下さったTさんの指導の御陰でより深く思考できたのだと感謝しております。ありがとうございました。

以上、文責は筆者にありますが、間違い勘違いがあっても一切責任を取りません。知らんけど。

踵を踏むということ(R1-6月沖縄セミナー)

沖縄講習会から帰ってきてからも暫く不眠症に悩まされ、心療内科に通ったりしていましたが、あまり良くなりませんでした。そこで、嫁さんのお兄さんが薬剤師で漢方の研究をされている方なので、見立てをして、私の身体に合う漢方薬を勧めてもらったところ、一週間もしないうちに改善し、今では毎日快眠できるように回復しました。

 

さて、沖縄セミナーのことを初日から追って書いてもいいのだが、時間も大分経ったことですし、題名にもあるように、「踵を踏む」ということだけ記しておこうと思います。

今回も様々なことを学んで帰ったのですが、特に私が「これかっ!」と言葉と身体操作が一致したのが「踵のアンカー」です。

いままで私は「踵を踏む」というのは、技に自分の体重を載せるため、爪先というブレーキを外すために行うものであり、技を出した時にその効果が有効に現れると認識していました。

これは、全くの間違えではないとは思っています。私が身体を落下させるという感覚を得たのは、この踵を踏むことが、きっかけでした。

しかし、これにはまだ先があって、前に身体が突っ込んで行きそうなのを踵を踏んで止めることが出来るのです。そしてそれを今回はっきりと身体で学んだのでした。

(そんなこと、かなり前から教えてもらっていたジャナイカ、と言われる人もいらっしゃるでしょう。でも、身体としての感覚も分からないし、分からなかったら出来ないんだよっ!!)

今回何をどう、師範に教えてもらったのかは、実は私自身はっきりと分かっていません。

ただ、2日目の突きの稽古の時、師範に「あっ!全然動いてないよっ!これは完全に出来てるよっ」と言われた時、前に身体を持っていこうとしながら、踵に強烈に力が加わって(この表現が良いのかはよく分かりません)いました。「あっ、もしかしてこれが踵のアンカーか?」と感じたのです。

何をどうやっていたのか、説明すると非常に難しいのですが、とにかく腰を割れるだけ割って、袴腰にし、大腰筋を伸ばせるだけ伸ばしていたように思います。

つまり、今まで師範に習ったことをそのまましていただけです。

しかし、師範が今まで講習会の度に言っておられた「踵のアンカー」は理解しきれず、「踵を踏む」ことと頭の中でイコールにならなかったのです。

それは恐らく「踵」のみに目がいっていた結果で、これは立ち方の全てを含めた上での踵のアンカーだったのです。そして、この姿勢が取れるから無想会としての動きが成立するんだと思います。

ただ、とにかくこれはきつい!これでずっと形をしなければならないと考えると厭になってしまいますね。

まあ、とにかく頑張ってみましょう。

以上、文責は筆者にありますが、間違い勘違いがあっても一切責任を取りません。知らんけど。

令和元年6月沖縄セミナー

沖縄セミナーに参加してきました。

私の体調が自律神経の異常で最悪の中の参加でした。

まあ、ギリギリ多少回復もしましたが、帰ってきてからも、不眠症に悩まされているので、簡単にセミナーの感想。

セミナーの感想というより、今回のメインテーマでした五十四歩について簡単に。

新垣師範のの解明した五十四歩は悉く実戦的でまさに使える形として復元されていました。

しかも、それは私が以前所属していた喜屋武系の流派の五十四歩そのままであったというのはあまりに面白く、帰宅してから改めて喜屋武系の五十四歩を動画で確認したのですが、なんだ、そのまま残っていたんじゃないか!と驚かされてしまいました。喜屋武系流派の無修正主義もあながち嘘ではないんだなと!

しかし、その解釈はあまりに違うが故に、全くの別物ではありますが・・・。

まあ、そんなこんなで、講習会中でも、えっ!この動きが本当はそういう意味だったんだ!えっ!解釈は違うものの動きはそのままやん!なんでそんな変わり方してしまったんだ?!

と驚きばかりで、笑いが込み上げてしまいました。

しかし、これを解明された師範は「悲しくなったり、腹が立って怒りが込み上げたりもしたよ!」と。

それは、沖縄人として沖縄の文化財産が、沖縄人の手によって変わり、忘れられてしまった当事者としての心情なのでしょう。

 

以上、五十四歩についての簡単な感想でした。

上記のように体調不良のため推敲もなにもしてない文章なのでめちゃくちゃではありますが、お許し下さい。

回復しましたら、今度はもう少し詳しくセミナーの様子を報告したいと思います。

 

終わり。(=゚ω゚)ノ

立ち方3年

「立ち方3年」という言葉がありますが、全くその通りです。

しかし、以下は私の現時点での解釈ですが、「立ち方は3年という長い年月をかけてでもマスターする価値は充分なほどある」という意味であり、立ち方を覚えるのに3年かけなさい、という意味では無いと考えています。

ですから1年で出来れば1年で極めてしまえばいいし、才能があれば1ヶ月であっても構わないと思います。

逆に、才能もなく理解も進まない場合は何年かかってもマスターするべきでしょう。

立ち方を極めてしまえば、後の理解は格段に変わってきます。武術として「立ち方」が出来るのと出来ないのとでは、修行を続けた行き先には全く別のものになっているでしょう。

そしてもっと正確に言えば、「立っていながら浮いている、即ち立つという止まった状態にありながら同時に落下している状態になれる方法を3年かけてでも体現せよ、3年かけるだけの価値はある!」ということだと考えています。

以上、文責は筆者にありますが、間違い勘違いがあっても一切責任を取りません。