沖縄空手無想会(東広島)

新垣清最高師範によって再興された沖縄武道空手を広島で追及していく様子です。

7/20(金)突きと距離

無想会空手のブログを立ち上げて第二回目です。

本日の稽古は、いつも通り準備運動、肘抜き、基本稽古をしたあと、マガジンパッド突きに移ります。

始めは、いつも通り突いていたのですが、ふと私の中で前から引っかかっていたことがあり、それを検証することにしました。

前回の講習会の時、新垣師範が

「あなた達は、突きというのは拳がA点からB点に移動する事を突きだと思っている」

と言われたのですが、実際に突きというのはスポーツ空手であろうが、無想会の突きであろうが、A点(構えた所)からB点(対象物)に移動しているのは現象としては事実であります。

ですから、この「突き」とは拳を移動させる事ではない、という意味が分からなかったのです。

このことを突き詰めるため、Iケダさんにパッドをもってもらい、色んな打ち方を試させてもらいました。

さらに頭の中のモヤモヤを整理するため、黙々と自分の中で細かい修正を続け、打ち込みます。さらに、感覚を言語化させようと、独り言のように今行っている身体操作を解説します。

その中で、マガジンパッドで、波を送るアティファの稽古をしている時、閃いたのです。

「ああ、波だ」

無想会ではアティファの稽古をする時、前段階でサンドバッグやマガジンパッドに手を添えてクシ(背中・腰)からの波を伝える稽古をします。今までこの稽古は突きに繋がる稽古とは認識してはいました。

しかし、それは正しくもあり、間違いでもあるのではないか。いや、間違いではないのだが、理解しきっていなかったのではないか?

それは、「突きとは波そのものである」との認識が出来ていなかった。

つまり、対象物に手を添えようが、自分の脇に拳を置こうが、そこに違いはないのではないか、ということです。

それは、音が、糸電話の糸を伝わっていくか、空気中を伝わっていくか、の違いと同じなのです。

師範は言いました。

「光は粒子であり、波でもある」

突きも同じなのです。腕という媒体を伝って波が進むか、何も無い空間に拳という粒子が波となって対象物に伝わるか、の違いでしか無いのです。

そうなると、「間合い」とは「距離」ではなく、相手の芯(重心)を掴めるかどうかだけであって、自分が移動可能な距離であれば、近かろうが遠かろうが関係なくなってきます。

そうなると、突きはもはやA点からB点へ移動するものではなくなり、ただ現象として拳が動いているだけであると認識できるようになってきます。

そして、突きは波であるから、音が糸電話の糸を伝わると同じように、音速の突きが可能であると期待まで持たせてくれるのです。

無想会の業(技)は不思議で、一つの事が理解出来ると遙か昔に習った事も雪崩を打つが如く理解出来てくるのです。

この夢物語のような音速の突きを現実に近づけるためには腕に波を邪魔するものを排除する必要が出てきます。その為に行っているのが、準備運動でも行われている「肘の抜き」なのです。

師範の肘の抜きは我々のそれとは違い、パチンッ!パチンッ!という音が鳴ります。これは別に指パッチンをしているわけでなく、恐らく、究極に腕の無駄を排除した結果なのでしょう。

これはほんの一例ですが、その他、今まで行っていた稽古、全てが繋がっていき説明ができます。

すべて、突きを波にする為の動作なのです。

音速の突き!決して非現実のものではないのです!!

 

以上、文責は筆者ですが、間違っていようが、勘違いだろうが、一切責任は取りません。知らんけど。