沖縄空手無想会(東広島)

新垣清最高師範によって再興された沖縄武道空手を広島で追及していく様子です。

無想会、沖縄空手国際大会出場の意義

前回も記した沖縄ナイファンチ極意セミナーで、私は、沖縄同好会のT氏とH氏に、米本部から来日された方々への記念品をプレゼントしたいから、扇子に書をしたためて欲しいと命令され言われ、25本ほど白地の扇子を買って、それに「無想会」と草書で書き、その横に小さく「第一回沖縄空手国際大会 平成三十年八月吉日」と書いたものを皆さんにお渡ししました。(しかし、それを今回参加した日本人にも記念品として渡すとは思ってもおらず、さすがにそれは焦りました。)

このおかげで、私は皆さんに扇子に書を書く人と認識して頂く事ができたようで、いち早く顔を覚えてもらいました。

また、今回は来日を果たせなかった本部のスティーブン氏から、未だ会った事もないのですが、そのスティーブン氏が描いて冊子にした漫画をプレゼントされたのです。これは、以前私が師範の似顔絵をデザインした事で、スティーブン氏が、私の事を漫画を描く日本人として認識した為です。

 

何故この様な事を書くかというと、これは私の事を認識する時に、分かり易い特徴付けに使われる、つまり個性として表されるという事を言いたいのです。

これは、いわば、希少性とも言えるでしょう。

ただ、書が上手いかと言われると、そんな事もなく、戦前の日本人なら下の中くらいの字しか書けませんし、絵も、絵を勉強した事のある人から言わせれば、下手くその部類に入るでしょう。

ですから、ここでの個性は無想会の中での希少性であって、例えば別の場に行けば空手をする人の個性が付け加わったりします。しかし、空手集団の中では空手をやっている事は個性にはなりえませんので、無想会でそれは私の個性になり得ません。他人と違う、または突出したものを持つ事によって始めて個性として表れるわけです。

 

今回、新垣師範は、沖縄空手国際大会に参加され、「今まで無想会空手を全面に打ち出す事に躊躇いもあったが、もはや心は決まった。どんどん発信してゆく」(言葉は違うかもしれませんが、こんな趣旨だったと記憶しております)と発言されました。

 

これは、沖縄空手を名乗る団体・個人が一堂に会し、各々の技を、業を、披露してみたところ、無想会の単独性が際立った為ではないでしょうか。

新垣師範はこのことを予想はしていたでしょう。しかし、新垣師範の同門の先生の中には、まだ、武道としての空手を残した方もアメリカにいらっしゃいます。

その期待もあったと思われます。

ところが蓋を開けてみたところ、その僅かに残った思いは打ち砕かれ、残ったのは孤独のみであった。と、同時にそれはかけがえのない希少性を超えてOnly one、単独であった。しかもそれは、私(筆者)の書や絵のレベルではなく、遙か高みに登った独立独歩の単独性であった。それ故、沖縄空手を名乗る団体の集団の中に入ると、霞むようなこともなく、その中に入っても尚、いや、寧ろその中に入ったからこそ単独性が際立ったのではないかと思います。

Only oneでありながら且つNumber oneである。これは強烈な個性です。

まあ、新垣師範がこの様な認識をされたかどうかは、分かりませんし、そんな事を私ごときが想像するのもおこがましいことですが。

ただ、沖縄空手の国際大会で無想会が際立ったのは確実だと思います。

寧ろ、今更ながら、もっともっと際立たせるため、大会用の形(極めを作ったり、見せ場を演出したり)などせず、無想会のいつもの空手をしても良かったのではないかと、終わった後の結果論だけで、無責任ながら思っています。

 

しかし、既に我々日本会員は、その単独性、希少性を理解し、そして魅了されています。

でなければ、年二回しか受けられない指導の上、何年かかって黒帯が取れるかも分からない(もしかして取れないんじゃない?)ような空手に6年も7年もかけて学ぼうと思わないでしょう。(学ぶ事さえできれば、黒帯なんて取れなくても構わん、と言う人も結構います)

そして、無想会の空手を学んだ会員達は、無想会の個性が、個々人己の個性に変換されていると体感していると思います。

それは、無想会の空手が「禅」であるから。「禅」は自分で学び取り、自分で開眼しなければ悟りに至らない。どんなに理論理屈を学び、虎の巻を手に入れ、模範解答を得ようとも、自分で体感し、理解しなければ、自分のものになり得ない。

自分のものでないものは、ただの台本の棒読みに過ぎない。

自分で悟った時、それは自分の中に消化され、己の個性へと昇華される。

そして、その内「気」で相手を吹っ飛ばせるようになるのです!!(なりません)

 

ああっ、書いてるとだんだんよく分からない方向に話を展開してしまいそうだ・・・。

 

閑話休題

己の個性は、己一人の時は認識する事は出来ませんが、他と交わった時、始めてその個性を認識する事が出来ます。

つまり個性とは己単独のものでありながら、他人が存在しない限り現れる事がない、逆説的な非常にあやふやなものでしかないのです。それ故、個性とは、個性と認識出来ない、または正確に評価されない状態が続くと、いつの間にか無くなったり捨ててしまう恐れすらあります。

日本会員の皆さんは様々な空手、武道を体験して無想会に行き着いているので、無想会の個性をはっきりと認識しています。

対して、無想会米国本部の生徒達はほぼ無想会空手しか知らない純粋培養の生徒ばかりです。

上記のようなことを考えていたら、新垣師範による今回の国際大会参加に狙いがあるとすれば、外に向けて無想会空手をアピールする狙いより、純粋培養の生徒達に無想会空手の個性・単独性を認識させ、且つ組織のアイデンティティーを植え付け、組織内部の結束に重きを置く、したたかな戦略があったのかもしれないと勘ぐっております。

 

以上、文責は筆者にありますが、間違い勘違いがあっても一切責任を取りません。

知らんけど。